写真週報の時代

写真報国
——写真は銃剣であり毒ガスである——



「映画を宣伝戦の機関銃とするならば、写真は短刀よく人の心に直入する銃剣でもあり、何十何万と印刷されて撒布(さんぷ)される毒瓦斯(ガス)でもある」

 1938年(昭和13年)2月に創刊された国策雑誌『写真週報』は創刊号にこう書いています。第1次世界大戦時、ドイツで花開いた「写真によるプロパガンダ」を日本で初めて実現させたグラフ誌です。

 内閣情報部が刊行し、写真や図版を多用。1冊10銭と安く、内容は戦果だけでなく、金属供出の呼びかけや空襲への対応、毎日の生活のアドバイスまでさまざま。敗戦直前の1945年7月11日付まで375号(合併号があるので370冊)刊行されました。発行部数は約30万部ですが、回覧が多かったため、実際には200〜300万人の読者がいたとされます。

『写真週報』の特徴は、当代一のカメラマンたちが多数参入していることです。これはなぜかというと、創刊後まもない4月、国家総動員法が公布され、カメラやフィルムの販売が統制。7月には内閣情報部の外郭団体として写真協会が発足したこともあり、カメラマンとして生きるには雑誌に協力するしかなかったからです。

 創刊号(1938年2月16日号)の表紙は、「愛国行進曲」を歌う子供たちで、撮影したのは木村伊兵衛。
 また、土門拳は1938年6月8日号で日本赤十字社の看護婦を撮影したり、1940年11月の紀元二千六百年記念式典でも主要メンバーとして撮影しています。

 ここで培った戦争プロパガンダ技術が、後に対外国策雑誌『FRONT』(1942年創刊)で花開くのですが、『写真週報』は戦局の悪化とともに、「国難来る 撃ちてし止まむ」などといったスローガンで埋め尽くされます。

「滅敵の闘魂を沸(たぎ)らせつゝ聖寿の万歳を奉唱し、決死敵飛行場を急襲せんとする」(1944年12月13日号)

 創刊時、写真で国民を啓蒙する「写真報国」を謳った『写真週報』は、昭和19年以降、空虚なスローガンだけで感情を鼓舞する劣悪な雑誌となって幕を閉じたのです。

 本サイトでは、この『写真週報』の全貌を一挙公開していきます。